どれだけのフェミニストがジェンダーに敏感?

以下の記事を読みましたが、フェミニストたちの文献を読んでも「ジェンダーに敏感な視点」というのが感じられないで、フェミニストたちの無痛化ばかりが考えられる者から。

新しい哲学のために - キリンが逆立ちしたピアス

フェミニズムは「公平中立」という視点は実は男の視点ではないのか?と言ってきたのだけど、そのフェミニズムがその「公平中立」の視点の問題点を指摘した時に、今度はそのフェミニズムの「公平中立」さが疑われているという問題をどう考えるのだろう。

茂木さんが言ったことをフェミニストが批判するのは分かるのだけど、フェミニストたちも「公平中立なテツガク」なるものを信奉していないか。

1つの具体例が以下のこと。ジェンダーに敏感な視点であるならば、以下のことが無視できるはずがないが。

女のセクハラ加害:女の高身長欲望 連続するセクハラ女の性

藤本由香里『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』は少女漫画論での代表的な文献だけど、少女漫画に歴然とある男たちの高身長描写の指摘が一切ない。フェミニズムの「公平中立」さにも明らかに限界があって、自らの痛みになることは指摘しない。『私の居場所はどこにあるの?』に少女漫画の高身長描写の指摘がなく、少年漫画は少女漫画のように男のほうが女よりも明らかに高身長であるとは描いてきていない。そこには、日本の女たちの高身長セクハラ言説との明らかな相関性があるという分析を、日本のフェミニズムはしてこなかったし、できなかった。

そうであるのに、フェミニストたちはセクハラと言えば男のセクハラばかりを言う。これは、はらわたが煮えくりかえる思いを通りこしている。

その新しい哲学を語る場のようなところで女のセクハラ加害:女の高身長欲望 連続するセクハラ女の性のような論考が当たり前に出てくるのであれば本当に新しい哲学の場だろうが、自らの無痛化を図りたいフェミニストたちが自らの痛みを引き受けるのか。今までのフェミニストたちの無痛化の歴史を考えると、フェミニストたちの無痛化こそが問題にされないといけないのだけど、されていない。

茂木さんが言ったようなことはフェミニストたちは何度も批判してきたけど、フェミニストたちが痛みを引き受けないといけない日本の少女漫画の男の高身長描写と日本の女たちの男たちへの高身長セクハラの結びつきの批判が出てこなかったことを考えれば、「公平中立」さが疑われているのはフェミニストたちではないのかと思えてならない。

簡単に考えれば少女漫画には男たちへの高身長描写があることはすぐに分かるのだが、それさえも指摘していない藤本由香里の文献が名著と言われる状況は、どう考えても変だろという話だけど。

ジェンダーの視点で抜け落ちていることの1つとして少女漫画論をあげたのであって、他にも複数ある。